ろば電子とは何だろうか

この記事は、物理学 Advent Calendar 2014の15日目です。

はじめに

私のブログ名の「ろば電子」とは、物理学(その中でも相対論的量子力学)に登場する用語です。もっともこれは戦前に使われていたかなり古い用語であり、最近の若い物理学徒の間では、そんな言葉を見たことも聞いたことも無い、という人も多いようです。

そこで、ちょうど物理学 Advent Calendarなるものが開設されていたので、この際だからちょっと語ってみることにしました。

なお私が大学で物理を専攻していたのはもう10年以上前なので、色々アレなところもあるかもしれません。

ろば電子とは何か

ろば電子とは、相対論的量子力学においてスピン1/2の粒子(典型的には、電子です)を扱うディラック方程式に登場する、負エネルギーを持つ電子の呼び名です。英語でもそのまま、「donkey electron」と呼ぶようです。

もし本当に負エネルギーを持つ電子があれば、これは通常の粒子とまったく逆の動きをすることになります。押せば近寄ってくるし引っ張れば遠ざかる、つまり力の向きと運動の向きが逆になるはずの、あまのじゃくな電子です。

なお、ろば電子と「真空」は切っても切れない関係があり、この理論によれば「真空」とは、「ろば電子がみつしりと詰まつてゐる」状態を意味します。これは現在でも形を変えて生きている理論であり、現在の物理学では「真空=何もない」と解釈することはありません。真空には、ろば電子が詰まっているのです。

何故、ろばなのか

ろばというのはあまのじゃくな家畜として有名で、押すと近寄ってくる、引っ張ると離れようとする、水を飲ませようとしても絶対に飲まない、というように人の働きかけと正反対の行動を取ることが多くあります。こんな背景から、ディラック方程式に登場する負エネルギー状態を持つ電子を、ろば電子と名付けたようです。なお、ディラック本人がろば電子と呼んでいたかどうかまでは調べていません(たぶん言ってないと思う)。

戦前の資料を見ると、日本では当時は「驢馬電子」と漢字で表記していたようです。

ろば電子の導出

この項では、なるたけ知識ナシに読めるよう、数式などは思いっきりはしょって説明します。

量子力学と電子

まずは事前知識。

量子力学では、やたらと電子を対象とした問題が登場します。なぜそんなに電子を扱いたいのか(あるいはなぜそんなに電子萌えなのか)ということは、化学や物理学をやったこと無い人には分かりにくいでしょうから、まずそこを簡単に解説しておきます。

電子を量子力学で扱うのは、古今東西において(そして現在も)重要です。これは、モノの性質の根本は電子状態で決まるからです。あるモノの電子状態が分かれば、もうそのモノの性質は分かったようなもんなのです(See: 電子配置, バンド理論)。

皆さんが日常感じる物性的な疑問(どうして金属は光沢があるのか、どうして磁石にくっつくものとくっつかないものがあるのか、どうして塩は結晶になると立方体になるのか、なんでダイヤモンドはあんなに硬いのか、どうして電流は流れるのか、とか)は、ほぼ全て、物質の電子状態の説明でカタがつきます。
また原子ひとつひとつの性質(どうして原子番号と同じ数の電子を持つと電気的に中性になるのか、どうして水素原子の周りの電子は原子核に落ち込まないのか、とか)は、やっぱり電子がモノを言います。それゆえ、物理学者も化学者も、みんな電子状態の計算に萌えているのです。

ろば電子が登場するのは真空中の自由電子であるため、素粒子論に踏み込む感じで物性論で扱う電子とは若干テーマが異なりますが、どちらにしろ電子状態がその系への理解を助けることは事実ですから、以上の説明はそんなに間違ったとらえ方ではありません(たぶん)。

シュレディンガー方程式から出発

ろば電子が出てくるのはディラック方程式ですが、そこまでたどりつくのは結構大変です。なので、色々はしょって駆け足で説明します。あんまり細かい式を出すと眠くなりますし、反変・共変ベクトルが出てくると、悪魔のテンソル計算(上付き・下付き)とスピノルに私のトラウマもうずいてしまうので、ここで詳しくは解説しません。

まず、次の非ポテンシャル下でのシュレディンガー方程式は、皆さんよくご存じでしょう。知らない人は知ったかぶりをしてください。これは真空中の自由電子にも当然適用できます。(これからずっと、真空中の自由電子を考えますので、皆さんの頭の中にも電子を飛ばしておいてください。)

 i \hbar \frac{\partial}{\partial t} \psi = - \frac{{\hbar}^2}{2m}{\nabla}^2 \psi

しかしシュレディンガー方程式は非相対論的(難しく言えばローレンツ変換に対して不変ではない)なので、高エネルギー状態を考える際にはこれでは不十分ということになります。

クライン・ゴルドン方程式

さて先ほどのシュレディンガー方程式に、相対論的効果を取り込んでみましょう。これは具体的には、相対論的エネルギーと運動量の関係式に対して、シュレディンガー方程式でもおなじみの置き換え E \rightarrow i \hbar \frac{\partial}{\partial t} \mathbf{p} \rightarrow - i \hbar \nablaをすることで導出できます。これによって得られるのがクライン・ゴルドン方程式です。(こういう天下りの与え方ではなく、もっとちゃんとした出し方もあるけど省略)

 \left[{\partial}^{\mu} {\partial}_{\mu} + (\frac{mc}{\hbar})^2 \right] \psi = 0

クライン・ゴルドン方程式は、記号の使い方で色んな書き方があるのですが、ローレンツ変換に対して不変であることを示すために4元ベクトルで書いておくのが良いでしょう。上付き下付きの添え字は、例のごとく和を取ります。

ディラック方程式

クライン・ゴルドン方程式は、「良くない」性質を持っていると考えられていました。何が良くないかと言うと、以下2点の問題が出てくるのです。

  1. 連続の方程式(確率の保存)を計算すると、負の確率密度が出てくる
  2. エネルギーを計算すると、負のエネルギーが出てくる

このうち(2)は置いといて、(1)については、クライン・ゴルドン方程式が時間について2階微分の項を含むことが根本的な原因です。というわけで、時間について1階微分の方程式を作ることができれば良いということになります。

ここからディラックピノルというものを成分とするディラック場を導入したり、興味深い計算が色々行われるのですが、その辺はもう全部ばっさりと省略して、ディラック方程式の具体的な形もここでは出しません。結果としてディラック方程式は、正の確率密度を持つため(1)を解決できましたが、(2)の負エネルギーの問題はそのまま残りました。

ここまでの歴史の流れは以下となります。(歴史の流れであって、この通り数式を追っていくわけではないことに注意)

ニュートンの運動方程式
 ↓ 一般化座標(計算がしやすくなる)
ハミルトン方程式
 ↓ 量子化(量子力学に移る)
シュレディンガー方程式
 ↓ ローレンツ不変(相対論的効果を入れる)
クライン・ゴルドン方程式
 ↓ ディラック場の導入、時間について1階微分(確率密度を正に保つ)
ディラック方程式

ディラック方程式とエネルギー準位

先ほど負のエネルギーの話をしたので、実際にディラック方程式から出てくるエネルギーを見てみましょう。もう皆さん忘れちゃったかもしれませんが、今、我々は真空中の自由電子(すなわち非ポテンシャル下の電子)を考えています。

ディラック方程式シュレディンガー方程式と同様に、ハミルトニアン固有値が、観測されるエネルギーとなります。詳しい計算は省略しますが、運動量pに対して、取り得るエネルギーEは、

E = \pm \sqrt{c^2 \mathbf{p}^2 + (mc^2)^2}

となり、絶対値が等しい正負の2つがあります。(なお量子状態としては4つありますが、プラスマイナスのそれぞれが2重縮退しているので、観測されるエネルギーは2つです)。

具体的にグラフに書くと、次のようになります。そんなに難しくありません。縦軸がエネルギーE、ということだけ理解すればだいじょうぶです。

これはつまり、ある運動量pに対して、電子の取り得るエネルギー値はプラスとマイナスの2つあり、そのプラスとマイナスのエネルギー差(エネルギーギャップ)はp=0の場合でも2mc^2という非常に大きな値だということです。

さて、このグラフには大きな問題が2つあります。

  • 正のエネルギーの電子(グラフ上、E>0の曲線上にいる電子)は、ギャップのエネルギーぶんを放出してどんどん負のエネルギー状態(グラフ上、E<0の曲線上)に遷移してしまうのでは?(現実にそうならないのは何故か?)
  • 負のエネルギー状態の電子とはなんなのか? 本当に存在するのか?

という2点が問題です。この負のエネルギーの存在が、当時の物理学者を悩ませることになります。

なお上図ではグラフを曲線で描きましたが、エネルギー準位は量子化されていますから、実際には連続ではなく「とびとび」です、念のため。

ろば電子が詰まつてゐる

やっとここまで来ました。先ほどのグラフへの2つの疑問の答えは、「負エネルギー状態の方へ、ろば電子がみつしりと詰まつてゐるから」ということになります。

なぜろば電子が詰まっていないといけないのか

基本的に物理学が扱う対象は、エネルギーが最小の状態を取ろうとします。これは電子で言えば、常に隙あらばフォトンを放出して(あるいは単に「光って」と理解しても良いです)低エネルギー状態に遷移しようとしている、ということです。ですから、もし負エネルギー状態に空席がたくさんあれば、この世界に存在する電子はどんどんそこに落ち込んでいってしまうはずです。

現実の電子がそうならないのは何故か? これには、電子がフェルミ粒子(フェルミオン)であるということにヒントがあります。そこで、ここでいったん寄り道して、フェルミ粒子について解説します。これが無いと、何故ディラックの海が出てくるのかが理解できないので。

フェルミ粒子(フェルミオン)とは

皆さんは化学の授業などで、簡単な原子の電子軌道は学んだと思います。水素→ヘリウム→リチウムと原子番号が増えるに従い電子も増えるので、1s軌道から2s軌道へと、電子を埋めていく軌道が外側へと移っていきます。
このとき皆さんは、「どうしてわざわざ外側の軌道を取るんだろう、一番内側の1s軌道に電子を3つも4つも入れればいいじゃないか」と思いはしませんでしたか。

電子の量子状態を考えるとき、電子がフェルミ粒子であるという性質を無視することはできません。フェルミ粒子とは、複数の粒子が同一の量子状態を取ることができない粒子です(詳しく語ると教科書一冊になるので思いっきりはしょります)。

電子もフェルミ粒子ですから、系内に複数の電子があるときに、それらは同一の量子状態を取ることは許されません(誰に許されないかというと、それは「物理法則に」でも良いし、「神に」でも良いし、「パウリおじさんに」でも良いです)。

「じゃぁ同一軌道には1つしか入れないじゃん! 1s軌道には2つ入ってるよ、嘘つき!」と思うでしょうが、電子はスピンの向きにより|↑>と|↓>の2状態あるため、1s軌道には|↑>と|↓>の2状態、つまり2個の電子が入ります。ですからヘリウム原子の基底状態では、1s軌道に2個の電子が入り、これで満員です。

負エネルギー解

負エネルギーの解に話を戻します。もし先ほどのグラフで、負エネルギー側で取りうる量子状態の全てに電子が詰まっていれば、そこは「満員」で電子は状態遷移できませんから、落ち込むこともできません。ディラック先生の発想がぶっ飛んでいたのはここです。

彼はまさに、現実の真空には負エネルギーを持つ電子(ろば電子です)が「みつしりと詰まつてゐる」と主張しました。これがディラックによる負エネルギーの解釈です。

このため、負エネルギーを持つ電子(しつこいですが、ろば電子です)が詰まっている、グラフの下半分は「ディラックの海」と呼ばれるようになりました。なおここまでずっと電子と言ってきましたが、ディラック方程式は別に電子に限った話ではなくスピン1/2を持つ粒子すべてに成り立ちますから、スピン1/2の粒子の「ろば」が、同じく「みつしりと詰まつてゐる」ことになります。

ここまでの議論がなんとなくうさん臭く感じる方向けに、次のような話もできます。
系全体として安定状態ならば、それはもっとも低いエネルギー状態を取っているはずです。そしてこの系では、負エネルギーに状態を詰めれば詰めるほど、(負の値なのですから)系全体のエネルギーは下がります。つまり、物理的にもっとも安定な状態として実現されるのは、この系においてはマイナスエネルギーすべてを詰めた状態となるはずです。ですから、ろば電子すべてが詰まった状態が安定であり、現実に取り得る状態である…………と解釈しても良いわけです。

陽電子(positron)

ここまでの議論では、「で、そのろば電子の正体はなんなのか」が全く明らかになっていません。回りくどく感じるかもしれませんが、この問題は、ろば電子そのものではなく「ろば電子の抜け跡」の議論をすると分かってきます。

もしディラックの海からろば電子が一つ飛び出して空席ができた場合、その穴は「プラスの電荷を持ち」「電子と同じ質量を持つ」粒子のように見えるはずです。そんな粒子は既に見つかっており、これは我々が現実に観測する、陽電子です。ここまでで見てきたとおり、陽電子の質量と電荷の絶対値は通常の電子と全く同じとなるはずで、実測値もそうなっています。

電子と陽電子が出会うと2つの粒子が消滅し、先ほどのグラフの上下の差分のエネルギーを放出します。具体的には、ガンマ線が観測されます。これは、電子が「ろば電子の抜け跡」に落ち込んでろば電子になる、とも解釈できます。

逆に、真空に対してE>0とE<0のギャップ(差分)より大きなエネルギーを与える(これもガンマ線を使います)と、そこから電子と陽電子がペアになって登場します。これはろば電子が励起されて、「電子」と「ろば電子の抜け跡」のセットが現れただけと解釈できます。はじめにも述べましたが、真空には何も無いわけではありません。真空には、ろば電子がぎっしり詰まっているからこそ、このようなことが起こるのです。

電子と陽電子が出会って消滅する辺りの話について詳しくは、物理学アドベントカレンダー 2014の10日目、id:aetos382 さんの「粒子と反粒子」をご参照ください。

ろば電子と反物質

ここでちょっと補足。

私もちょっと前まで勘違いしていましたが、「陽電子 = ろば電子」ではありません。「電子の反物質陽電子 ≠ ろば電子」です。

先ほど見たように、ろば電子は負の質量を持ち、押すと引っ張られる、引っ張るとあっちにいく、という通常の力の作用とは全く逆の動きをします。一方の陽電子は現在実際に見つかっており、電子と全く同じ質量を持ちます、つまり正の質量を持っています。

真空中にはろば電子が詰まっており、何かの拍子に(典型的にはガンマ線の照射で)、ろば電子がディラックの海から抜け出すと、その抜け穴が陽電子として振る舞います。つまり、「ろば電子の抜け跡 = 陽電子」です。

ディラックの海って、エヴァで見たよ!

結論から言うと、エヴァに出てくるディラックの海と、ろば電子が詰まっているディラックの海は、関連性はありますが若干違うものです(と私は解釈しています)。

新世紀エヴァンゲリオン(テレビ版)」の16話で、第12使徒レリエルにシンジくんが取り込まれたディラックの海は、光瀬龍の小説「百億の昼と千億の夜」に出てきたディラックの海をモチーフとしています(萩尾望都が描いたコミック版もあります、そっちの方が読みやすいかも)。これは「マイナスエネルギー」を持つ「虚数空間」という描写がされています。

しかし先ほどのグラフを見れば分かるように、本来のディラックの海は運動量pを横軸に、エネルギーEを縦軸に取ったときに、エネルギーがマイナスになる方のエネルギー準位を指しているだけであり、別に虚数空間ではありません。しかし新世紀エヴァンゲリオン(テレビ版)で赤木リツコ博士は、ディラックの海虚数空間とだけ表現して、マイナスエネルギーとは言いませんでした(よね? さすがに全部のセリフを覚えているわけではないので……)。

ですから、第12使徒の中にあったのはあくまで「百億の昼と千億の夜」に登場したディラックの海をモチーフに(もっと言えば元ネタとして)、エヴァ世界へマッチするよう若干アレンジされた「ディラックの海」であって、現代物理学が扱っていた「ろば電子が詰まったディラックの海」ではない、というのが私の解釈です。

ろば電子が詰まっているディラックの海(本来のディラックの海。マイナスエネルギーを持つ)
 ↓
小説「百億の昼と千億の夜」に出てくるディラックの海(虚数空間でマイナスエネルギーを持つ)
 ↓
TV版エヴァンゲリオンに出てくるディラックの海(虚数空間)

なぜ「ろば電子」という言葉は廃れたのか

この用語が廃れた原因はふたつあり、一つ目にはおそらく、ロバが身近な生物では無くなったためでしょう。特にヨーロッパ文化圏では、ロバと言えば思い通りに動かないものというイメージがあったため(ドン・キホーテもロバに乗っていましたね)、当時はしっくり来たんだと思います。しかしロバのパン屋を見なくなった現在(このネタももう若い人には通じないようです)、ロバと言われてもよく分かりませんから自然消滅したのでしょう。

もう一つは、そもそも現在の場の量子論では、ろば電子のような珍妙な粒子を登場させなくても、ディラック方程式の負エネルギーの電子をうまく説明できる手法があるためです。つまり、ろば電子は既に役割を終えたのです。

終わりに

あんまり上手くまとまらずに、あちこち話が飛んだかもしれません。詳しく知りたい方は以下に詳解する参考文献と参考リンクを読んでみてください。

参考文献

伏見康治先生の、ずばり「ろば電子」という本があります。なんと戦前刊行の本ですが、復刻版は今も手に入ります。

ただしこれは科学エッセイ集なので、肝心のろば電子の話はごく僅かです。

以下の雑誌に、同じく伏見先生の、ろば電子を解説した記事が掲載されています。

  • 伏見康治, 「いうことを聞かない電子 驢馬(ろば)電子」, 数理科学 Vol.28(2) [ISSN:03862240], p.28-30, 1990

これは3ページの短い記事ですが、エッセンスが丁寧に解説されており大変良い記事です。ぜひ読んでみることをおすすめします。雑誌「数理科学」は比較的メジャーな科学雑誌なので、ちょっと探せば見つかるでしょう(たぶん)。

その他の参考文献

量子力学(2) (KS物理専門書)

量子力学(2) (KS物理専門書)

百億の昼と千億の夜 (秋田文庫)

百億の昼と千億の夜 (秋田文庫)